―目次―
1.傷 kizu
2.歯(は)ha
3.鼻-hana
4.目(め)me
5.アテローム
6.腰痛
7.髪-kami
8.倒れる-taoreru
9.頭 atama
10.痔
11.コンタクトレンズ
12.靴
13.カバン
14.カキ
15.納豆
16.酒
17.髭(ひげ)hige
18.夢・遊び場
耳の後に傷跡がある
これは生まれて間もない頃の
中耳炎の手術のあとだ
耳がおかしくて ぐったりした私を抱えて
母は佐合から柳井の病院まで
二時間以上 走ったと聞く
次は右の親指の傷だ
小学生のころ割れた牛乳瓶を
力一杯投げて“スット”切ったものだ
アッと言う間の出来事で吹き出す血に驚いた
その頃は 膝小僧の擦傷(すりきず)がたえなかった
ようやくできたカサブタの上から又擦ったりして
膝は“アカチン”の色で
いつも赤くなっていた
大人になって左手人指し指を切った
日曜日 ニューヨークの研究所で
ただ一人タバコの葉をつぶしていた
突然 ガラスホモジナイザーが折れて
指がささった
片手で車を運転し病院に行った
さすがに この頃
体に傷をつけることもないが
別の傷が何処かに
うずいている事だろう
小学生の頃何度となく通った
歯医者があった
ちょうど女子高の前にあり
いつも若い女の臭いで
一杯だった
その中で口を開けて
治療を受けによく通った
彼らの間にはまり
身動き出来ずにいた
上田の歯医者に通ったときは
大変だった
奥歯を1本抜かれてしまった
その痛さは耐えがたく
2、3日何もできなかった
後で歯をよく抜くので
有名なところだと知り悔しかった
ニューヨークではブリッジを治した
日本の大学病院で作ったブリッジを
すべて作り替えさせられた
アメリカ人の歯科医がこんなの
見た事がないので
記念にほしいという
ダイムで作った様だと彼は言った
五年後日本で又
ブリッジを取り替えた
今度は十二本の歯全てを修理する
大工事だ
折角のアメリカ産
セラミックブリッジは
取られる運命になった
小さいときから
鼻が詰まり苦しかった
呼吸をしてもなかなか空気が
肺に入って来る感じがしない
イカリという耳鼻科へ
しばしば通った
毎回30円位取られた
医者は段々良っていると言ったが
そんな気はしなかった
高校になって
鼻中隔湾曲症と分かった
鼻の中の骨が途中で曲がり
空気の出入りが悪いのだ
大学2年の時
思い切って手術した
県立病院の手術台で
麻酔をかけられたが
医者と看護婦の会話が良く聞こえた
ノミでゴンゴン骨を削るので
頭に響く
“時々間違って骨に穴を開けることがある
自転車に乗ると鼻の穴が
ヒュ?ヒュ?と音を出すんだ”と
医者が看護婦に言うので
僕は不安になった
一週間程で退院し
自転車で走ってみたが
鼻から音も出ず
その上
空気がうまくなった気がした
高校の頃だった
朝礼で前の人がぼくの左側に
立っていると
校長の顔が
よく見えないことに気付いた
すると途端に
黒板の字まで見えなくなった
眼鏡屋に行くと
右目が0.5で左が1.0の
近視の程度が違うことが分かった
それからときどき
眼鏡をかける様になった
セルロイドでできたフレームに
ガラスのレンズがはいっていた
視力はそれからどんどん落ちてきた
仙台にいたころ
黒縁のメガネにした
何か暗い人間になった気がした
アメリカでは
金ぶちのフレームに
紫外線プロテクトのついた
レンズに取り替えた
この格好で帰国すると
二世の様だと言われた
この後フレームを幾度が取り替え
その度におおきくなった
レンズもプラスチックになり
どんどん軽くなった
いま近視と老眼の狭間で
又メガネを変ることになるだろう
ヘソの下に五十円玉程の塊が出来た
その内 膿が出てきた
大学の病院に行くとアテロームなので
すぐに取ってやると言われた
看護婦が鮮やかなてつきで
サット 僕の隠毛を剃ると
新米の医者が学生を連れてやってきて
僕の腹の出来物を切り取り
なにやら ながながと説明したあと
ものの10分もしないで縫い合わせた
ここの学生だから
お金は払わなくていいと言われたが
実験材料にされたらしい
その後 おなじものは私のからだには出来ていない
朝起きると立ち上がれない
ベットの上で寝られない為
床にマットをひいて ごろ寝の毎日
20歳後半の僕は
腰が激しく痛み
毎朝起きるのが苦痛であった
ついには足もいたくなり
這って歩く有様だった
寮に入ったり アパートに移ったり
実験と勉強に 息もせず
朝から夜遅くまで走り続けて
大学の医者には手術をすれば直る
と言われた
結局 カイザ?ホスピタルでコルセットを
つける事になった
暑いカルホルニアでそれを着けると
汗もが出た
結婚してもう一度医者に行った
痛風が出ていると言われた
確かに足のおやゆびの関節が膨らんで痛い
血中の尿酸を減らす食事を
妻は毎日作るのが一苦労
何分食べ物が限られて
核酸の多い物は出せない
おかげで僕は
次第に腰の痛みも取れて
長年苦しんだ腰痛から解放された
昔学生とスキーに行った
雪がどんどん降る
寒い日だった
私はスキー帽をかぶり
やっとの思いで
寒さから頭を守った
黒で、ふさふさしたカミのある
学生の頭の上には
白い雪が厚く積もっていたが
帽子もかぶらず
1日中滑っていた
なるほど
カミは帽子として
寒さを防ぐ道具なのだ
?と感心した
ところで、我が道具は
年々散り去り
その役目から解放されている
それは帰国して 二、三年後の春先の事だった
三十五歳位いの時だろう
朝目覚めると 突然部屋の中がぐるぐる回り
立ち上がると 吐き気が襲った
頭はガンガン鳴り よく聞こえない
妻の運転する車で 土浦の耳鼻科へ連れて行かれた
さっそく酸素吸入し 点滴を打たれ
ベットの上に寝かされた
ストレスがたまり 倒れたのだ
入院を続けると体力が弱るので
桜川のほとりを歩きながら
人生の通過点にいる自分に
焦らず頑張ろうと言い聞かせた
柳の緑が目にまぶしかった
確かにいつも帰宅して 論文を直していた
もう仕事を家で夜やるのをやめようと誓った
平日 土浦の町を1人歩いていると
路地の多いことに気が付いた
よく小さい頃 こんな所で遊んでいたことを
思い出し 少し余裕がでてきた
二週間後に家に帰ったが
土産は 左耳の耳鳴りだった
頭の話は山ほど有る
子供の頃は十分髪の毛があった
佐合の祖母は
「ヒロちゃん」のおでこが出ているから
前髪は刈らないのがいいと母に言ったと聞く
中学に入る頃 坊主頭にされた
しかも3分刈で
やっぱりおでこの出た
ピカピカの頭だった
高校でまた伸ばした
するとフケがでるので困った
あまりよく洗わなかったからだろう
アメリカでは思いっきりのばした
夜勉強するときはハンカチを
バンダナのつもりで頭に巻いた
結婚して子供が増えると
それと反対に
すこしずつ抜け始めた
子供が幼稚園のとき
誰か私の写真を
後頭部から撮った
見て驚いた
そこの部分が丸くて薄くなっていた
以来頭は気にしない様にしている
いまでも少し残っているようだ
大体自分が痔になるとは
思ってもいなかった
というより
肛門のまわりが かゆいので
西山医院に行くと痔瘻と診断された
手術は麻酔をうたれ
あっというまに終わった
そのあと腰がしびれて歩けず
看護婦さんの手で
ようやくベットにたどり着いた
痔は痛いと聞いていたが
そういう事もなく4、5日入院した
この体の世話になって43年
色々あちこちいたんでも不思議はないが
養生せねばならないと考えて家に帰ると
妻がトイレをウォシュレットにして待っていた
メガネを新調しようとして
日吉の眼科に行った
しきりにコンタクトレンズを勧められる
初めは一週間着けぱなしの
使い捨てを試みる
三日目くらいから頭が痛くなる
ついに四日目に取り外しあきらめる
今度は取り外し可能な
コンタクトレンズのセットを
買わされた
これに合う老眼鏡まで作らされる
コンタクトは何とか慣らしていたが
顕微鏡をみると
たちまち目が乾いてとれてくる
夕方 本を読んでいると
やはり
目の水分が切れてきて
ソフトレンズは何処に行ったか
分からない
一度取れると
なかなか元に戻すのが難しい
そんなわけで二ヵ月で
元の眼鏡にかけかえた
もっともレンズだけは
新調することになったのだが
私の足は言うまでもないが
ふくらはぎ同士がくっつかない
体重を支えるのに不都合なO脚だ
そのうえ足のサイズも
24.5センチと小振りで
あの足形の靴でないと
歩いた後が大変だ
だから自分に合う靴を求めて
今までなん足無駄な靴を買った事か
サラリーマン用の革靴は硬すぎるので
リーボックのジョギングシューズがいい
一つ合うやつを見つけたら
ずっと同じスタイルを買い求める
靴は毎日違うものを履き
仕事場では変える
少しあらたまった日には
ハッシュパピーの革靴と決めている
北大の生協で買ったものは
滑り止めがあり雪にもつよい
近ごろ腰の痛みが無い
これも良い靴のおかげと思う
そういう訳でわが家のげた箱には
7種類の靴が自分の出番を待っている
いま黒いビニール制の
リィックを通勤用に担いでいる
娘が中学の制服を注文したとき
おまけについてきた物だ
左肩にかけて吊革にぶらさがり
右手で新聞を読むのに都合がいい
けっこう大物も入るので
雑誌や論文を詰め込む
もう五年近くも使いこみ
所々傷が着きいたんでいるのに
立派な「手下げカバン」は
押入の中で眠っている
衣をつけた海の幸は
長い間海水に育まれ
たっぷりと夏の間に栄養を取り
この寒さの近付いた季節になると
食卓に現れる
生で酢がきにして食べるのもよい
小麦粉にからませたフライもいける
オイスターなどといわれるが
この海のチーズは
もっと深い味わいを与えてくれる
そうだ先月九ちゃんで焼きがきを食べた
あんなうまみある味の牡蠣は初めて
スープもいい
海で育まれ潮の香り溢れる牡蠣は今が食べ時だ
このバチラス菌の増殖した後に
あの糸ができ
箸でかき混ぜるとねばねばと
ああ 納豆かと手に強く反応する
醤油を少しかけ
これに大根おろしや海苔をふりかけ
暖かいご飯の上にのせる
おもむろに口に運び込めば
なんという大豆の変化した物がくちの中から
メシの匂いに混じって胃に落ちる
日本人はいつからこんな美味しいものを
そして アミノ酸に満たされた食べ物を考えたのか
先祖の試みに感謝と驚きをもって
納豆を食べる
まさにこれは生き物そのまま
植物の種と微生物の造りだした神の恵み
朝から夜まで何時食べても飽きること無い納豆
酒といえば色々有る
いずれも免税店で買ってきた
重いヤツが棚に中でねむっている
もう十年以上も前に買った
七十五度のラム酒
は今でも健在だ
口に放り込むと燃えそうだ
気のむいたときにはビーフィーターを
氷で割る
つい最近までビーフィーター と呼んでいたが
どうも違っていたようだ
ウヲッカやタキーラもいい
いずれも免税店では一番安いこれらのものを
わざわざ運んで来ることもないと
最近では酒を買うことは少ない
タキーラはグラスの周りに塩をつけ
マルガリータにすれば
美味しいメキシコができる
台湾で買った紹興酒は砂糖をいれて
暖めて飲めば良い
マオタイの類は強力で
瓶を開けただけで
家のなかに臭いが
立ちこめる
ウィスキーといえばサントリーの
オールドがベストと思っていた
ジョニーウォーカーやオールドパーが
今手軽に手にはいる
学生の頃
奨学金をもらった日に
ブランデーを買うのが楽しみだった
サントリーのV.O.で
V.S.O.になると勇気がいる
ましてV.S.O.Pやナポレオンなどは
夢のような物だった
こうして周りを見渡すとき
有難く飲めるものが少なくなった
わたしが髭を延ばしたのは
今から二十五年も前になる
二十六歳でアメリカに渡り
寮に入った
十七から十八の高校を出たばかりの
友人がたくさんできた
日系の三世が多かった
そうしたともだちが出来た理由は
私が若くみられたためとすぐ分った
髪もキリット刈り上げていたが
だんだん長髪になり
ヒゲも二、三ヵ月剃らないと
ちょうどデンスケの様な
顔になった
あごの方をそり
口髭のみにしたら
二、三歳年を取った様に見えた
以来
口ヒゲは剃った事がないので
妻や子供達は
私の本当の顔を知らない
夢の中に
もう一つの場所がある
川沿いのコンクリートの
ビルの中だ
ここで私は友人とよく会い
飛び跳ねて遊んだ
両親の住む家とは違って
少し不良じみた子ども達の
遊びの場になっていた
何かのはずみで
この場所が
私の夢の中に住み着いているが
不思議なことに
私はいつも子供のままだ