「すてられた記録」より

 

―目次―

 

   「早起き」

   「白紙の空間」

   「すてられた記録」

   「黒板」

   「活力」

   「柿」

7   「ペン」

   「手帳」

   「詩(うた)・テープ」

10  「庭石」

11  「空の瓶」

12  「蚤の市」

13  「菊水館」

 

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―――――――――――――――――――――――――――――――

 

「早起き」

 

朝五時に目覚めた

薄暗い部屋に

電気スタンドをつけて

書き損じたコピー用紙に

思いついたことを記す

 

頭が少しすっきりしているのか

日常気がつかないアイディアが

次から次へと湧き出る

 

その一つ一つを

布団に寝そべって

鉛筆で書いてゆく

 

そんなことを夢中でやっているうちに

考えることも尽きた

 

ぼんやりとしていると

バシッという音が

玄関のドアから聞こえた

朝刊だ

 

 

 

「白紙の空間」

 

空白の紙は単なるメモ帳

この平面はペン先が走る広場

こうして黒い字に満たされていくと

空白は意味ある世界に広がる

白紙はペンが躍動する条件であり

脳の指令の結晶が輝く

招待席だ

 

 

「すてられた記録」

 

今思えばもったいない

小さなカードに

その時その時の

「実験操作方法」が記された

「プロトコール」だ

 

学生時代から何十年分になっただろう

アメリカで買った重くて硬い鉄製の箱に

それらは保存されていた

 

「プロトプラストのとり方」

「組織切片の作り方」

「タンパク質の定量法」

――など何枚にも及ぶ記録だ

 

そのうち研究室が何度か引っ越した

そのたびに古い記録や論文のコピーが

すてられた

 

ワープロができて

記録はパソコンに保存されるようになった

そして「カード」は長い間眠ったままだった

 

ある日ふと懐かしくなり「古いカート」゙を探した

どこにも見当たらない

自筆のペンの跡が残るカード

パソコンの記録は印刷され

自分の筆跡はない

 

古びた研究記録は自分の生きた証

どこに消えたかその懐かしさに

思いをはせる

そこには

あの頃の仕事の思い出が

ぎっしり詰まっている

 

ところがきょう

「鉄の箱」が見つかった

あの時こぼした試薬で

こげたままのカードも出てきた   

 

 

 

「黒板」

 

黒板は白や赤のチョークが走り回る

遊び場のようなものだ

今では広い教室に

中央が屈曲した見栄えの良い型になり

チョークもしっかりと固められ

ちょっとやそっとの

力の入れようでは

飛び散ることもない  

 

教室の後方からでも見えるようにと

大きな字で書いていると

いかにも

字が生き物の様に

厚い縁の板上で踊り

注目されるのを

楽しんでいるように見える

  

 

 

 

「活力」

 

落ち込むことは

不思議では無い

いつも陽気であることのほうが

不思議だ

 

心は

活力のある行為からのみ

癒されるのではない

人は落ち込んで

 

そこから活力をもらうことも

出来る

不思議な生き物だ

 

 

 

「柿」

 

私は柿が好きだ

秋ともなればすぐ柿を想う

 

あの茶とも黄色ともつかない色に

魅せられる

カロチン色素が全体を包み

果肉が柔らかくなる頃が食べ時

 

子どものころは

ベタ柿を一山いくらで買い

肌が黄色くなるまで食べた

 

柿には

何か私を引き付けるものがある

 

 

 

「ペン」

 

もう十八年前に

ニューヨークでたくさん買った

ボールペン

 

日本への土産

残った一本が

ここにある

 

先日

友人が

非常に使いやすい

と語った

 

確かに

重いペンの感覚を

指先に覚える

 

ペンとは

こういう重みある

ものだったのか

 

ゴールドに輝く

クロスのペン

 

十八年間

眠ったままだったのに

まるでいつも

働いていたかのように

青いインクを

ノートの上に吐き出した

 

 

 

「手帳」

 

 

残り1ページになったこの手帳

今年も数日残すだけ

なんとなく取っておいた昨年の手帳に

詩(うた)を書くことを始めた

 

通勤電車の中で

周りの人々に挟まれて

私は時空を超えて

過去へ未来へと動き廻りペンを走らせた

時には

前に坐った人の顔に刻まれたしわの陰に

何かを見つけようと言葉が現われ

 

ある時は

吊革につかまる

青年の背中から発せられることばが

詩になった

 

こうして使われた頁は

次々と切り取られ

もうこの1ページが残るだけだ

 

 

 

「詩(うた)・テープ」

 

自分の書いた詩を 

夜テープに吹き込んだ

 

イヤホーンをつけて

肉声を聞きながら

感度の良い

テープレコーダーに向かって

朗読する

 

一つ一つ読んでいると

目で読むスピードと

話す時間が

不思議と

ずれていることに気がついた

 

同じ体の

異なった器官が

実は微妙にあるラグを持って

反応しあっているのだろう

 

自分の体とはいえ

その中は

複雑な部品の

協力なしには

働くことはできない

 

録音が終了した

自分の声を聞いて見ると

また一段と違う人が

そこに在る

 

プロの声優ではないので

そう上手な話し方ではない

ただ 

印刷されたものとは

明らかに

異なる詩(うた)が

耳から入って来た

 

  

 

 

「庭石」

 

気持ちよく刈り取られ

草丈の止まった芝の中に

行儀よく並んだ庭石

 

まるで大海に浮かぶ

浮島のようにも見え

また青々とした芝を

踏みしめないようにという

心遣いの踏み石にも見える

 

これまた上から下まで

手入れの行き届いた

松の木の下で

土の中に

半分身を沈めた庭石が

涼しげに

夏の天空を見上げる

 

 

 

「空の瓶」

 

熟成した色を惜しむように

グラスに注がれた葡萄の精を飲み干せば

遥か遠くの国の香気に酔う

空になったガラスの瓶は

高価な中身とは裏腹に捨てられる

 

昨日まできらびやかなデパートで胸を張り

人の注目を集め

もう10年もあのセラーの中で

宝物のように扱われた

 

抜かれたコルク栓だけが

記念に残る

 

 

 

「蚤の市」

 

蚤の市がここで行われている

 

日曜の午後

そろそろ店じまいの人々が

車に商売道具を運びこむ

 

「東郷平八郎」を祭った神社

明治の頃が生きている

 

原宿界隈ビルの谷間に

そこそこの

緑を保った存在は

見逃し難い

 

人が祭られる時代は過ぎ 

何かに飢えて

歩き廻った人々に

オアシスらしき

くつろぎの空間を残す

 

平和過ぎるこの世に

国を守って

生きた男の物語が

紙芝居のように

掲げられているのも

いいものだ

 

 

 

「菊水館」

 

地衣が

川辺の桜の表皮に張り付き

オオイタドリの

たまごのような形の葉がゆれる

 

菊水館は

梅雨空の下

うっそうとした森に囲まれ

堂々としたものだ

 

水車は

なんともゆっくりと

豊沢の川に

つつみを打つように

水をはきだす

 

イワナでもとびだしそうな清流が

旅人の心を休ませる

 

曇り空のもと

沢グルミやミズナラの森から噴出した

清らかな酸素が

湯上りの肌をここちよく刺激し

ここでは

瓦葺(かやぶき)の屋根が

主人だ

 

                           

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