宮沢賢治「銀河鉄道の夜」―その聖書的理解―

by 幸田比呂 (著作権保護作品) 

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はじめに

宮沢賢治の作品「銀河鉄道の夜」には、聖書の内容を連想させる箇所が多数出現します。著者の解釈もまじえて、それらの聖書的理解を試みたのが本稿です。読者が必ずしも聖書で述べられる特殊な用語に精通してはいない、という前提の下に、聖書そのものの解説も加えました。本文中、「銀河鉄道の夜」や聖書に表現された記述は下線(アンダーライン:銀河      、聖書      )で示しました。

それでは、いよいよ、「賢治ワールド」と、神の霊感を受けて記されたといわれる「旧約・新約聖書ワールド」の扉を開いてみましょう。

ジョバンニの死:

「ジョバンニ、カンパネルラが川にはいったよ。」「どうして、いつ。」「ザネリがね、ふねの上から鳥売うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから―中略―――けれどもあとカンパネルラがみえないんだ。」

ジョバンニの親友カンパネラは,川に落ちて死のたびに出ました。カンパネルラは水におぼれて死に、銀河鉄道のなかに復活します。そして、ジョバンニと二人の旅が始まるのです。

イエス・キリストは、ヨルダン川の川べりで、洗礼者ヨハネによりバブテスマを受けます。イエスは洗礼(バブテスマ)を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは神の霊が鳩のように御自分に来るのをご覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マタイによる福音書3章16−17節)。洗礼は、一度水の中に死に、キリストの死にあずかる意味を持ち、キリスト教では最も大切にされる儀式です。

ハレルヤ:

「ハレルヤ、ハレルヤ。」前からもうしろからも声が起こりました。ふりかえって見ると、車室の中の旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを垂れ、黒いバイブルを胸にあてたり、水晶の数珠をかけたり、どの人もつつましく指を組み合わせて、そっちに祈っているのでした

北十字の場面です。ジョバンニとカンパネルラの乗った汽車が北から、南へ移動します。「ハレルヤ」は、本来、神を讃えよーという意味でもちいられ、賛美歌にも頻繁に使われています。

マタイ26章30節には、一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。とあり、ハレルヤが賛美の歌として記されています。このように、イエス・キリストが処刑される前夜、弟子たちとの最後の晩餐の後に歌われたのが、このハレルヤの歌といわれます。

林檎(リンゴ)

「何だか林檎(リンゴ)の匂いがする。僕いま林檎のこと考えたためだろうか。」カンパネルラが不思議そうにあたりを見まはしました。―――途中略すーーー

「おや、どっから来たのですか。立派ですねえ。ここらではこんな林檎ができるのですか。」青年はほんとうにびっくりしたらしく、燈台看守の両手にかかえられた壱もりの林檎を、目を細くしたり首をまげたりしながら、われを忘れてながめていました。

聖書の創世記に記された、人間が食べてはならない智恵のがリンゴといわれています。聖書に最初に記された人類、すなわちアダムとイブは、エデンの園と呼ばれる平和な土地で暮らしていました。そこでは、耕すことも労することもなく自然の恵みを享受できました。「銀河鉄道」の描く天上の楽園はまさにエデンの園のようです。

この辺ではもちろん農業はいたしますけども大ていひとりでにいいものができるような約束になって居ます。農業だってそんなに骨は折れはしません。大抵自分の望む種子さえ播けばひとりでにどんどんできます。

聖書の中でも特に有名な箇所(創世記3章)がアダムとイブの物語です。この部分を子供たちにもわかるように書いてみましょう。

―――神様はアダムとイブの二人に、このエデンの園に生えているものはなんでも食べていいといわれました。ただし、ひとつの木の実だけは食べてはいけないといわれました。二人はその約束を守って楽しく生活していました。ところがある日、二人の前にヘビが現れて、「あそこの木の実を取って食べてごらん。神様よりもっと賢い人になるのだよ。」と言いました。二人とも、はじめは、「そんなことをすると神様に叱られます。」と断っていました。ヘビはしつこく二人に、「黙っていれば神様にも分からないよ。食べてしまいなさいよ。」と言いました。ついに、イブがその禁じられている木の実を食べました。「何だ、食べてもなんともないだ。」とイブがいうと、今度は、アダムが食べました。そして二人ともその事を、神様に内緒にしていました。ところが、神様は、「お前たちはどうして約束を破って、あの木の実を食べたのだ。とんでもないことをしてくれた。」と言って叱りました。すると、イブは、「あのヘビにだまされて食べたのです。ヘビのせいです。」と返事しました。次に、アダムのほうは、「エバに、食べなさいといわれて食べたのです」と答えました。二人とも、他人のせいにしたのです。すると神様は、「私との約束を破ったのだから、この楽園から出て行きなさい。これからは、自分たちで働いて食べ物や住むところを見つけなさい。」といわれました。こうしてアダムとイブの二人は楽園を追われてしまったのです。

――――このお話はキリスト教における「原罪説」の根拠として考えられています。神に背いたアダムとイブの罪のゆえに、人類は生みの苦しみ、労働する苦しみなど生きる苦しみを課せられるという宗教的考えです。

いろいろな国語

どこからともなく306番(讃美歌のこと)の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語でいっぺんにうたいました。

銀河鉄道に現れた人々が、ここに来る前の沈没する船でおきた場面です。

新約聖書使徒言行録(2章1節)には、五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語るままに、ほかの国々の言葉で話しだした。−と述べられています。この箇所は、キリストにより予告された「聖霊降臨」として重要視されています。後に、神、御子(キリスト),聖霊のいわゆる三位一体説の基盤にもなります。初代キリスト教会の構築上、特別に注目される聖書の箇所です。ここにでてくる、他の国の言葉、とか、いろいろな国の言葉で語るーーことは、聖書では異言(いげん)とも呼ばれています。

それからまた、その神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひともたすけてあげようとおもいました。

この話は、沈没する船の場面から銀河鉄道にやってきた青年の会話です。多くの子供たちをかき分けて、小船に乗り移ろうとした自分への罪の意識を嘆いています。

――聖書の罪意識に関しては多くの記述があります。聖書における罪とは、神に対する従順な信仰から外れた自我による生活を意味しています。当初キリスト教徒を迫害し、後に代表的なキリスト教の宣教者となったパウロは、ローマの信徒への手紙6章22−23節でこのように述べています。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たち主イエス・キリストによる永遠の命なのです。

また。罪の赦しに関しては、次のような、たとえばなしがあります。――ある王のもとに巨額の債務のあるものが連れてこられました。彼は返済することが出来ないので持ち物を全て売って返すように王に求められたのですが、ひれ伏して猶予を願い出ました。主人は哀れに思いこの男の謝金を免除しました。ところが、男は、自分に借りのある仲間にたいして、首をしめて「借金をかえせ」といい、牢に投げ込んだのです。このことを知った主人は男を捕まえ獄吏にひきわたしました。このように、人を赦すことがどれほど困難であるかがわかります。

また、マタイによる福音者18章21−22節では、イエスに弟子のペテロがたずねました。「主よ。兄弟が私にたいして罪を犯したばあい、何回まで赦すべきでしょうか。7回までですか。」これにたいするイエスの返答は、「7回どころか、7の70倍まで赦しなさい」。ここには、全てを赦すほどの隣人への愛が示されています。

十字架

ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙や、もうあらゆる光でちりばめられた十字架が、まるで一本の木という風に川の中から立ってかがやき、その上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかがやいているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。

ここではすこし十字架の意味を説明します。十字架による処刑は、ローマ時代には最も重い罪に対して与えられた死刑の方法でした。そもそも、ユダヤ人にとって、十字架による処刑は、神に呪われたものが受けるべき刑であるとも考えられていました。処刑の方法が最も残酷なためです。体を支えるために、手や足に鉄の釘を打ち込み、最も苦痛に満ちた刑であったのです。そのため、苦痛を和らげる目的で、苦味をまぜたぶどう酒(発酵した酢の様な液体)が与えられるのですが、イエスはそれすら拒否し、強盗とともに処刑されたのでした。では、なぜ、イエスはこのような悲惨な最期を選んだのでしょうか。ここに、神の愛が示されたと聖書は語ります。つまり、神の子であるイエス自身が神に対する生贄となり、贖罪の死を遂げることにより、人類全ての罪の許しを神に示された。その結果、人類に再び神の愛がもたらされた、というものです。この時点で、先に記した、アダムとイブに由来する人類の罪は消滅し、ここに神との「新しい契約」、すなわち、「新約の世界」が始まります。

聖書には、イエスの最後が記されています。マタイの福音書27章45−50:

さて、昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」という者もいた。そのうちの一人が,すぐに走りより,海綿をとって酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」といった。しかし、イエスはふたたび大声で叫び、息を引き取られた。―――――ここで書かれてるエリヤとは、紀元前9世紀頃北王国イスラエルで活躍した預言者です。預言者とは、当時は宗教的指導者であり,また国の政治的アドバイザーでもありました。

いけにえ(生贄):

どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてず、どうかこの次には、まことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。――中略――そしたらいつかサソリはじぶんのからだが、真っ赤なうつくしい火になって燃えて、よるのやみを照らしているのを見たって。いつまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。

 

生贄は本来モーゼの律法によれば、牛などの家畜の血により償われる神へのささげものでありました。これには,なだめのささげ物−、つまり、焼くことによる香りによるなだめがあります。罪に対する生贄も牛などの動物の血により償われました。キリストは、神にささげられたもっとも尊い生贄と解釈されています。それは、キリストがユダヤ民族の救い主(メシヤ)であることの期待がありました。しかし、当時のユダヤ社会ではメシアはあくまでも新たなる王でなければならない。その理由は、ローマの属国からの解放が、その王によりエルサレムにおいて成就すると考えていたからです。この意味では、イエスの福音は自らの民族であるユダヤ社会のみではなく、むしろローマ帝国から、ひろく異邦人(ほかの世界)に広まったといえるでしょう。イエスの死は、人類への愛の証として理解されています。

 具体的な例が、最後の晩餐(マルコ:26−26)に見られます。それは、イエスを描いた多くの絵の中でも特に有名な場面です。イエスが自分の逮捕されるのを予見して、弟子たちに言われました。まず、パンを取り、賛美の祈りを唱えて,それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これは私の体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆この杯から飲みなさい。これは、罪が許されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

キリスト教徒にとって守られてきた儀式のなかで、聖餐にあずかる式はここから由来しています。もっとも、この時イエスの弟子ですら、イエスの運命を知りませんでした。自分たちの王として君臨し、弟子もまた高い地位につくと信じていたのでした。しかし、イエスの行動はまさに彼らの期待を裏切る行為であり、このときのイエスの言葉が十分理解をもって弟子に伝わったかどうかは確かではありません。イエスは神に自らを生贄として捧げる事により、人類に神の愛を取り戻そうとされたーと解釈されています。

ただひとつの神

「あなたの神さまって、どんな神さまですか。青年は笑いながら言いました。「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人のかみさまです。「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」

ユダヤ教では、エホバの神を唯一の神としていました。基本的にはユダヤ教もイスラム教もただ一人の共通の神であることには変わりありません。旧約聖書ではイスラエル民族が多神教に傾倒したため多くの苦難を経験する場面が数多く出てきます。

特に、嘆きの預言者として有名なイザヤは多くの艱難のなかで国の滅亡と唯一の神との関係を解き明かしました。特に有名な箇所が、イザヤ書2章4節にみられます。

(唯一の神である)主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし、

槍をうちなをして鎌とする。

国は国に向かって剣をあげず、

もはや戦うことを学ばない。

―――この箇所は平和のメッセージの箴言でもあります。

また、イザヤはイエス・キリストの誕生を預言したことでも知られています。イザヤ書7章14節:

それゆえ、わたしの主が御自ら

あなたたちにしるしを与えられる。

見よ、おとめがみごもって、男の子を産み

その名をインマヌエルと呼ぶ。―――――おとめとはマリアであり、インマヌエルは、救い主のいみで、イエス・キリストであります。

白いきものの人

そして見ているとみんなはつつましく列を組んで、あの十字架の前の天の川のなぎさにひざまづいていました。そしてその見えない天の川の水をわたって、ひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。

ここで述べられた、白い着物の人とは、イエス・キリストそのものと思われます。天に召された人々はキリストのもとへ行くために、列車を降りるのです。

マタイによる福音書17章1−3節には、イエスの姿が変わった光景が述べられています。6日の後、イエスは、ペテロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

ヨハネの黙示録(7章 9−10 節)には次のような記述があります。この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、なつめやしの枝を持ち、玉座の前と子羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救い主は、玉座の前に座っておられるわたしたちの神と、子羊のものである。」――ここでは、白い着物は、罪を清められ天国にあがった人々のようでもあります。また、このような人々に対して、「彼らは、もはや飢えることも乾くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。」―とヨハネの黙示録7章16節に述べられています。

ラッパの声

「ハレルヤ、ハレルヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびき、みんなはそのそらの遠くから、つめたいそらの遠くから、つきとおった何とも云えずにさわやかなラッパの声をききました。

汽車がサザンクロスに近づく場面です。ラッパは聖書に頻繁にでてきます。古代オリエントでは、神殿における奉仕の合図、戦の時、日常的に時刻を知らせる際、お祭りなどの重要な情報伝達の手段でした。

例えば、モーゼに率いられて40年間シナイ半島の砂漠を彷徨ったイスラエル民族が、ついに約束の地カナンに入ります。その中で、エリコの占領の場面が出てきます。ヨシュア記6章20節:角笛が鳴り渡ると、民はときの声を上げた。民が角笛の

音を聞いて、いっせいにときの声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入しこの町を占領した。――ここでは角笛がラッパの役目をしています。

また、ヨハネの黙示録4章1−3節では天の門が開くときの情景が黙示されています。

その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くように私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。」わたしはたちまち霊に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。同じく、ヨハネの黙示録には、終末の日、聖徒を集める目的のラッパが吹かれている、と書かれています。この情景は新生賛美歌336番にあります。1893年、ジェームズ、ブラックが作ったものです。“世の終わりのラッパ鳴りわたる時、世は常世の朝となり、救われし者は四方の隅より、すべて主のもとに呼ばれんーーーと歌われています。

「銀河ステーション」と「ヤコブの夢」

そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角形の形になって、しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。――中略――気がついてみると、さっきから、ごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。

旧約聖書の創世記28章10−13節には、兄エソウから逃れて旅に出るヤコブの物語が出てきます。ヤコブは、次男であったが兄をだまして、父イサクから長子の権利を奪ったのでした。そのため、エソウに憎まれ、身の危険を感じたヤコブは逃亡の旅に出たのです。旅の途中、荒れ野の石ころを枕にして深い眠りにつきました。すると、彼は夢を見た。先端から天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神のみ使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。翌朝、目覚めたヤコブは、これは神と自分とをつなぐメッセージに違いないと思って、喜びその場所をベテル(神の家の意味)と命名し、その場所は今日に至っています。

賛美歌320番には次のように歌われています。

3番:主のつかいは み空に、かよう梯(はし)のうえより、招きぬれば、いざ登りて、主よ、みもとに近づかん 4番:目覚めて後 まくらの、石を立ててめぐみを、いよよせつに称えつつぞ、主よ、みもとに近づかん。

結びの言葉

「銀河鉄道の夜」には、このように多くの聖書の中に符合する物語や言葉が登場します。今回は、作品そのものの聖書との比較と解釈を試みました。

どのような作者の意図があったか、何を土台として或いは素材としてこのような表現ができたかに関する考察はいたしませんでした。多くの読者にとって気になるところではありますが、時空を超越した作品に、このような遠大で人類共有の究極的課題が秘められていることは大きな驚きです。まさに「銀河鉄道」は、いまも私たち人類の永遠なる希望をのせて、走りつづけている事でしょう。

参考書:

1. 「銀河鉄道の夜」 昭和文学全集:宮沢賢次賢治 角川書店

2. 聖書:新共同約(1988)日本聖書協会

3. 聖書:原文校訂によるによる口語訳:フランシスコ会聖書研究所(中央出版社) 

4. エッセンシャル聖書辞典(1998)いのちのことば社出版部

5. 賛美歌(1954)日本基督教団出版局

6. 新生賛美歌 (2003) 日本バブテスト連盟発行

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