幸田比呂の聖書講座(主の祈り)

―「主の祈り」の意味するものー

 

「主の祈り」は、キリスト教を信仰する者にとって頻繁に用いられる祈りの形態である。W.H.ウリモン、S.ハワースト著による本書には、容易に理解できそうな祈りの内容が丁寧に説明されている。著者は、キリスト教の信仰について紹介する上で、「あなたが信ずべきことについてではなく、あなたが祈ることを学ばなければならない祈りについて記した」と強調している。また「キリスト教の教理についても、祈りと同じように身につけていかなければならない」とも述べている。「主の祈り」は、以下に記すように極めて短い文章ではあるが、キリスト教の本質に関わる要点が纏められている。本書で述べられた点を要約し、解説を試みる。

 

「主の祈り」

天にまします

我らの父よ

御名を崇めさせたまえ

御国を来らせたまえ

御心の天になるがごとく

地にも為させたまえ

われらの日常の糧を

今日も与えたまえ

われらに罪をなすものを

われらが許す如く

われらの罪をも許したまえ

われらを試みにあわせず

悪より救い出したまえ

国と力と栄とは

限りなくなんじのものなればなり

アーメン

 

 

天にまします

天とは神が治めている領域、すなわち宇宙を含む存在するもの全てであり、見えない領域(無限)も然りである。イエスは神とともに、全てを統治する。

理解を容易にするために、詩篇(23章)に記載されている文章を引用する。

今、地において行われている神の支配に加わるなら、それが最後にもたらされる神の永遠なる勝利の加わる備えになるということです。私たちは主の家に永遠にとどまることになるでしょう。詩編は旧約聖書の一部を構成し、キリスト以後の新約聖書においてもしばしば引用される。

 

我らの父よ

この祈りは、イエスが御子(神の子)であることを受容した(受け入れた)ことを示す。神(主)との特別な内面的コミニュケーションの証でもある。イエス・キリストにより(イエスを通して)、神が自らを示されたと理解されている。イエスを知ることにより、神の存在が一層身近になる。今から約2千年前に起きた出来事が、世紀を超えて人類に重要な意味をもたらした。漠然とした表現ではなく、イエスにより、神を知りうる点が強調され、信仰告白でもある。

 

御(み)名をあがめさせたまえ

神は生きており行動なさる。――今共に生きており、神を賛美することに意味がある。神がキリストにおいて何をなされたかーーーこのことがキリスト教の原点であり、神がどのような方であるか知ることにもなる。創造主を知ることは、つまり、神のみ名を口にすることは、信仰の歩みの具体的表現になる。

 

御(み)国を来たらせたまえ

主イエスは、私たちを、ご自分の国に導くために来られた。イエスを通して神がこの世界に来られ、神の全権に統治される(み国)の到来には福音の信仰がもとめられる。イエスが悪魔の誘惑に勝利し、神の国の建設に向かわれたことは、聖書に記されている通りである。

 

御(み)こころの天になるごとく地にもなさせたまえ

神を愛するものたち、つまり、神のご計画に従って召されたものたちには、万事が益となるように働く(ローマの信徒への手紙 8章28節)。神の御心は、天で行われるように、この地においても行われている。自分が何かをなすべきかの言葉以前に、神が今何をなされているかを宣言するー言葉「表現]と解釈される。ルター訳では:あなたの御心が現れますように。――とある。ハワーストは、キリスト者は忍耐の民と呼ばれるべきという。わたしたちを忍耐してくれつつ十字架につけられた神の忍耐に学ぶべきである、と述べている。自分の希望のみ要求するのではなく、自分の十字架を負い、神の忍耐に従うように招かれている。この章で、原子爆弾と十字架のイエスを比較的に論じているのは、ハワーストが欧米人であり、我々被爆国の立場からは受け入れがたい記述もある。

 

われらの日曜の糧を今日も与えたまえ

救いとは、わたしたちの命が神から与えられたものであることを知るだけではなく、日ごとのいのちがパン(食べ物)に頼り、パン(食べ物)によって形成されていることに気がつくことでもある。聖餐におけるパンとは異なり、日用のパンであることは、その日に十分なもの(命を支えるに足る食糧)という意味である。ただし、パンは単なる食料ではなく、神の与えられた啓示と解釈する事も出来る。この意味で、パンとは信仰そのものでもある。

 

われらに罪を犯すものを我らが許(赦)すごとく、我らの罪をも許(ゆる)したまえ

神の本質は赦しにある。イエスがどれだけの赦しを為したかは、福音書に記されている。それは、人を赦すことの出来ないものは、どうしても渡っていかなければならない橋を自分自身で崩している−というジョージ・ハーバートの言葉が印象的である。天国に入りたいと願うなら、無限の赦しという狭き門をくぐりぬけなければならない。

 

われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ

ハワーストによれば、サタン思想、あるいは悪霊思想が基本的には欧米人思想の根底にあることが良くわかる。極端な例は、自分が悪いのは、サタンが原因だとしてしまう。この様な自己逃避的考えは、人間が持つ危険性でもある。この祈りを祈ることによって、私たちは悪魔から解き放たれると説明されている。むしろ、神を試してはならない、という古典的伝承により理解する方が受け入れやすいと思われる(幸田記)。

 

国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり

解釈を取り違えれば、政治的であり、また危険で物騒な言葉でもある。一人の王と、その王が支配する王国に忠誠を誓う言葉との相似を感じさせるからに違いない。確かに、サタンの誘惑を退けて、この世の権威を手にされなかったキリストにおいて、政治や権力は無意味なものに違いない。天の国は神の支配にあり、神の国は、すでに今この時点で存在すると思えば、すべてはそこに帰属する。いかなる政治的支配があっても、神はそれらを超越した統帥として存在すると考えたい。

 

アーメン

主の祈りの肯定的同意の祈りである。“アーメン、主イエスよ、来てください”( ヨハネの黙示録の最後)。絶対的イエス・キリストに対する信頼と同意の証明がこの祈りにあるのは、そのように生きたい、という信仰の証でもある。

注:この解説は、下記の著書を参考にし、幸田比呂の解説を加えたものです。

「主の祈りー今を生きるあなたに」W..リモン、S.ハワースト著,

平野克己訳、(日本キリスト教団出版局)。




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