短編小説

古話

by 幸田比呂 (著作権保護作品)

 

序編:

竜兵衛が牛守り(うしまぶり)になってもう三十年経った。神山に水をいただいて二十年になった。彼の身の終わりも見え始めていた。北上の深い山の空気は彼の肌にあったようだ。南部の城下へは3度行った。いつもぼんやりと戻ってきた。何の感興も与えられなかった。また覚えなかった。

彼が20歳の春まで何処にいたのか誰も知らない。三十年前の春雲雀(ひばり)の声に乗ってひょっこりこの神山にきた。とマタギの権次は覚えていた。それ以来竜のおやじはここに住みついた。よく働いた。立派な“牛守りのおやじ”になった。

全く皆感心した。竜おやじが来てからというもの、一度たりとも“ベコ“の山死は出なかったからだ。もちろん秋には全てのベコが帰ってきた。全てが上手くいっていた。



中編:

春が来ると竜は決まって姿を消した。三日間、それはほとんど誰にも知られなかった。当時竜兵衛は彼が来て二年目の冬雪崩で死んだ小屋守りの老人の後釜に座っていた。沢岸の高床の小屋に独りで食っていた。時々木引き(こびき)や炭焼き人が立ち寄った。海から南部へ向かう途中の商人塩を残していった。彼はそれを青々しいフキの葉っぱに何枚も包んで、例のように姿を消すのだった。ある年の春また竜の姿が消えた。だがその時は三日経っても、四日経っても帰って来なかった。ちょうど権次が山鳥を腰に括り付け、夕暮れの山道を急いでいる時だった。足下を物凄い勢いで走り過ぎた者がいた。

―誰だーと叫んだ。その影は何やら苦しみ悶えている風であった。時折バシバシと低木の折れる音が響いた。熊か。いや人かーと権次は用心深く火縄を構えた。だがそうするまでもなく、直ぐに不思議な静けさが辺りを襲ってきた。火縄の燻る臭気が権次を狂わせた。それはマタギのみが持つ醜悪な触手であった。−コリャーコリャーコーと喉の奥から連発した恐怖の声と共に発砲した。凄まじい一発であった。

竜兵衛が小屋に戻ったのはそれから3日後のことであった。ひどく

やせて目だけがギラギラ輝いていた。首筋には白い汗の跡が残り、

口もとは醜く歪んでみえた。右の耳が半分欠けていた。それを彼は

眉もしかめず、顔を皺だらけにして笑った。笑ったというよりよう

やく棲み家へ辿り着いた安堵感で心が一杯な様子であった。

戸口へ立った竜は垂水口へ大きな口を寄せゴクゴク飲んだ。笹葉の

混入も心にとめずしばらくはそうしていた。水が頬を流れ、傷つい

た耳口の血痕を落として言った。耳はやはり半分無かった。

その年のあき大雨が神山を襲った。三日三晩嵐は荒れ狂った。木々は倒れ、

竜の小屋も屋根が片側飛んでしまつた。木を切り出しに山に入っていた木引

の中には再び帰らぬ者もいた。竜はこの時もニヤリと笑って牛を調べに山

に入った。そして神山に水をいただいたのはそうした嵐の後だった。片耳の

竜兵衛が湧口の水が拡がるのをみとめたのである。白い大地のシナの木の下

に輝くものをじつと見たのである。

その湖水は残し紅く光を放っていた。ペコの鮮血が厚く漂っている様に動か

なかつた。あふれ出た水は岩間にしんとうし竜おやじの小星の前に流れ落ち

た。

その流れに彼が顔をつける頃耳はすつかり無くなつていた。山人はその水口

を耳なし竜の神水と呼んだ。その流れに触れた人間の耳が消える水と呼ばれ

ていた。全ての山人がそれを信ずる様になっていた。そういう水を竜は毎日

飲んだ。何とも無かつた。だが伝説は続いた。神山の湧水の古語は消えなか

つた。山人がそれをたやさせなかつた。それは以来話を知った者ならば、誰

も神山の水を飲もうとはしなかつた。そしてそれは“掟”となつた。

神山の掟が伝えられる様になってから、即ち竜兵衛の耳が消えて以来、毎年

一頭の牛が死んだ。放つたばかりの若牛がきまって無残な死体を残した。そ

れは、いつも神山の水際におこった。竜兵衛の小屋の前の清水が、にごるので

判った。そんな時竜はわざと大声をあたりの山に響かせながら、飛び出すの

だつた。何とも、しめたというはしやいだ気勢にあふれていた。全く不思議

だった。山人は竜の小屋の前を通るたびに、その災いの清水を憎々しげに見

やつた。ぶっつぶそうでエ。ぶっつぶそうでエ。とたまりかねた山人たちは清

水の流れを反対の沢へ変えることにした。竜じいは黙った手を組んで見てい

た。仕事は二日で終わった。清水の流れはもう竜じいの小屋に来なくなった。

今にたたりがある。あるぞ。と彼は疑わなかつた。だが、それ以来山は何事

もなく平和であつた。ベコの死はなかつた。山人は自らの勝利を秘かに喜んだ。

しかし未だ不安はすてきれない様子であつた。今や竜兵衛は全く孤独であった

。自分を撃ったマタギもあの時以来顔を見せなかつた。木引きも、炭焼きも

ただ小屋の前を通りすぎるだけだった。それにも拘らず、彼の孤独は一つの

平安の証拠だった。如何なる心遣いも妨げも、今の彼の生活には不用だった。

自分が自分でいられる長い瞬間の継続であつた。彼はそれを以前から期待

していた。そして楽しんだ。

『俺が二十歳のあの時、南部の城下を飛出してきたのは、正にこういう縮間

の為なのだ。毎年姿を消す人間であることを忘れたいからだ。今こうして独り

居る。事実だ。疑いもない。だが、はたしてこれが、これの俺の求めた世界な

のか。本当にそうなのか。』



終編:

その年の秋、山は今までに無い大嵐を招いた。それはほとんど五日続いた。

あちこちで雪崩が起こり、木が倒れた。自然は赤裸々な打撃を地上に与えて

静寂に帰した。まばゆい空の下、一人の山人が竜兵衛の小屋の前を通りかかつた。

すぐその顔面は青白に化した。濁った落水につきささつた流木に紅(くれない)のものが水に洗われもせず粘着していたからだ。小屋に駆込んだ。竜じいは見えなかつた。彼は山人を集めた。人々は重い足をひきずりながら新しい谷を坂登った。それは神山の湧口に続いていた。そして竜兵衛の死体も水辺のシナの大木の下に紅の口を開けて横たわっていた。今まで見たこともないせいかんな眼をつき出していた。安らぎはどこにもなかつた。彼の全てが終わっていた。

以来山人はもはや流れを変えようとしなかつた。

神山のおきても断えることがなかつた。 

(1966年作品)




     作品集TOPへ     幸田比呂HPへ  ソンシアの家HPへ

幸田比呂作品集(小説など)

【目次】 
短編小説「古話」 by幸田比呂(著作権保護作品) 
短編小説「運」The fate by幸田比呂(著作権保護作品)
短編小説「先輩」 by幸田比呂(著作権保護作品)