(著作権保護作品)
【目次】
 内村鑑三とエレミヤについて(著作権保護作品)

 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」その聖書的理解(著作権保護作品)

 主の祈りの意味するもの(著作権保護作品)

「内村鑑三とエレミヤについて」

―内村鑑三(1861−1930)は札幌農学校の第二期生である。同級生には、新渡戸稲造、宮部金吾などがいる。1884年アメリカにわたり、牧師を志した。約4年後帰国し、幾つかの職を経たのち、聖書の講話を中心とした活動を行った。自らは、「無教会主義」という、欧米には無い日本独特のキリスト教会派を発展させた。

さて、内村の発刊する――明治42年4月10日「聖書の研究」108号について解説したい。内村はドライバー博士の英訳した聖書を用いて講義したと言われる(旧約聖書の「エレミヤ書」)。108号の主題になったエレミヤは、バビロン捕囚期(紀元前6世紀頃)、ユダヤの預言者である。預言者とは、神の言葉を民衆に伝える伝道師としての役割をもち、時には政治的な諮問も行った

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内村はエレミヤを、預言者であり詩人である、と言っている。預言者は神の旨を伝えるものであり、詩人は天然の心を語るものであり、二者の間の区別は困難であるとした。この区別に関して内村は、預言者は昔の詩人、詩人は今の預言者というのがもっとも適切であるとした。生きた神に最も近くたつものであると、結論している。預言者の中でもエレミヤを最も際立った詩人と認めている。

その例は、以下のエレミヤ書4章19節にみられる。

嗚呼、我が腸(はらわた)よ 我が腸よ、我は痛む、

我が胸板よ、我が心は我が哀に悲しむ、

我は黙するにあたわず

我は喇叭(ラッパ)の声、戦争の叫びを聞けばなり、

23節.

荒地を見しに形なく 又むなしかりき

を見しに光なかりき、

をみしに皆震いたち、

すべてのは揺ぎたり、

我見しに人は絶たり、

空の鳥はすべて飛び去れり、

26節

田園は曠野(あれの)と化せり、

すべての町はエホバの前に崩れたり、

その激しき怒りの前に崩れたり

ーーーこの例は、エレミヤ文体を代表するものであり、天然を感ずること鋭く、その思想は、よく天然の言辞をもって表現したと解説している。文中下線で示すのが、内村の言う天然であり、神の造り給える所産であると述べた。エレミヤが、効果的にこれらの表現法を用いた点を強調している。本文の箇所は、イスラエルの滅びに哀しむ、嘆きの預言者としてのエレミヤを判り易く表現している。

このような詩的表現の例が、エレミヤ書1章11−12節アメンドウの木を引用した以下の文である。

エレミヤよ、汝、何を見るや

と、彼は答えていった

我アメンドウの枝を見る

時にエホバ彼に言い給いけるは

汝、よく見たり、そは我言をなさんとて醒むればなり

―――アメンドウ(アーモンド)は梅のように春の先駆けとして、醒むる神の存在をしめす。

わが国の梅の花も復古の予言者であるとも言っている。内村の聖書解説の特徴とも言えるのが、聖書の世界とわが国あるいは東洋的状況の共通性、ひいては普遍性の比較論である。

また、エレミヤは空を翔る鳥にたとえて、イスラエルの民を責めた。

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空のコウノトリはその定められた期を知り、ヤマバト、地鶴とツバメとはそのくるときを守る、されども我が民はエホバの律法を知らざるなり(8−7節)

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コウノトリは春と同時にアフリカから、パレスチナ地方に移動する。その他の鳥も時期を同じくして南部に移動するといわれる。鳥のこのような本能と人の神に対す信頼を、内村は以下のように説明している。

「鳥が本能により帰るべきときを知り、行くべき道を知るがごとくに、ひとも天賦の本能によって彼をつくりし神を知り、またこれに至る道を知るのである。人に神を知る本能がないのではなく、罪によりこれを失ったのである。」

イスラエル人の荒廃した信仰を、13章23節に比喩的に述べている。

エチオピア人その皮膚を変ええるか、

豹、その斑を変ええるか、もしそれを成し得ば悪に慣れたる汝らも善を成し得べし(13章23節)ーーとたとえている。

次に第二の契約として重要な、エレミヤの預言者として言葉が以下に示される。

31章31−34節:

我彼らの懐に我が律法を置くべし

我是を彼らの心のうちに記すべし

我は彼らの神となるべし

彼らは我が民となるべし

彼らは再び各自その隣人に告げ、

又各人その兄弟に告げて、「汝エホバを知れ」と言わざるなり、

――――罪に生まれその中に育った人の罪は生来の罪であり、これを改める力は神以外にはない、−と内村は論じる。

神を離れたイスラエル人に対して、エレミヤは新しい契約を迫り、神の無限の恩恵によってのみ、神との正しい関係が成り立つという。

是は、あたかもエチオピア人の皮膚が雪のごとく白くなり、豹の斑が除かれ羊のようになるようなもので、罪になれた人も自分の意思ではなく、神の無限の恩恵によって聖なる者となるのである。

エレミヤの詩人的観察は生きている物のみではなく、無生物に見られる点についての解説がある。

2章12−13節

天よ、この事におどろけ、いたく慄けよエホバいい給う、

我らは2つの悪事をなせり、彼らは活ける水の泉なる我を棄て

己がために水溜をほれり

水を保たざる壊れた水ためをほれり

ーーー活ける水の泉は、混沌とあふれ出る天然の泉。水溜は人が掘った人工のもの。水量少なく、限りある。神の造ったものの永遠性と人工の有限性を説いた。

――このように内村はエレミヤをして、大いなる預言者であり、大いなる詩人とたたえている


以下は幸田比呂の解説

以上の中から特に印象に残ったエレミヤ書の箇所について記述する。特に、「エレミヤに見られるキリストについて」述べる。

エレミヤ書31章31−34節に、我彼らの懐に我が律法を置くべし

我是を彼らの心のうちに記すべしーーーと述べられたように、新しい契約が記されている。口語訳では、私がイスラエルとのいえとユダの家とに、新しい契約を立てる日が来る(31節)とあるように、キリストの贖罪の死による契約を預言させる。この契約は私が彼らの先祖をその手を取ってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない(31−32節)。―と述べられ、モーゼの古い契約ではないことを暗示している。すなわち、私は、私の律法を彼らのうちに置き、その心に記す(31−33節)、としている。ここに、心に記された律法、すなわち神との契約は、神が「かたち」としてではなく「霊なるもの」として人間の中に臨在の幕屋を置かれーと解釈される。

パウロ神学との関係:パウロはコリントII(3章−3節)で、あなたがたは自分自身が、私たちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板にかかれたものであることを、はっきりといいあらわしている。と述べている。

 (著者結論):エレミヤの第二の契約とは、形ある人の手による、物質的ものでは無いとされる。このことは、エレミヤの預言の成就がイエス キリストによりなされた事。そして、キリスト教本来の在り方は、エレミヤ思想が土台であり、パウロにより神学的に体系化された。

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内村鑑三と宮沢賢治:内村は、岩手県花巻出身、斎藤宗次郎の介護により晩年を過ごしたと言われる。宗次郎は花巻において教職にあったが、キリスト教を信仰した理由で弾圧を受けた。宮沢賢治の父は宗次郎と交流があったことから、賢治少年にも少なからず影響を与えたと言われる。賢治の「雨にも負けず」の作品は、この宗次郎をモデルにしたとも言われる。

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